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島田事件紹介

島田事件について

 

1954(昭和29)年3月10日(日)午前、遊戯会が開催されていた静岡県島田市内の幼稚園の園庭から、6歳の園児(女の子)が行方不明になりました。翌日から目撃情報の収集、山狩り等の大捜索が行われた結果、13日に至り同市南方を流れる大井川の対岸である榛原郡初倉村(現島田市)の山中で強姦死体となって発見されました。

赤堀政夫さん(当時25歳)が、逮捕・起訴され、1960年(昭和35年)12月に最高裁で死刑判決が確定。以後、死刑執行の恐怖と向かい合いながら、第4次に及ぶ再審請求で無実を訴え続けました。1989年(昭和64年)1月に、静岡地裁で無罪判決。逮捕から35年、赤堀さん60歳の年でした。

 

1 見込み捜査による別件逮捕

当時25歳だった赤堀政夫さんは放浪生活をしており、同年5月24日岐阜県内において警察官から職務質問を受けました。本名、生年月日等を素直に述べたのですが、当地の警察署に任意同行され、25日には島田署に移されて取調べを受けました。赤堀さんは同年1月に島田市内でやった些細な窃盗を自供したところ、5月28日にこの窃盗罪により逮捕され、6月1日には女児強姦致死・殺人により再逮捕されました。

 

2 別件逮捕と自白の強要

逮捕された赤堀さんは、2カ月半以上前である3月10日前後の行動について、早朝から深夜まで追及され、脅かされたり、頭を小突かれたり、首筋を押さえつけられたりして取調べを受けました。再逮捕後はその調べは更にエスカレートしていきました。

このようにして作られた供述調書は、警察の捜査によって得られた客観的な証拠と対照して、供述内容にくいちがいがあることがわかると、その度毎に捜査結果に合わせて訂正された新しい供述調書が創られ、“自白”の内容は変遷していきました。

 

3 見込み捜査

一方で警察は、同年3月15日モンタージュ写真を公表し、25~30歳くらいの定職を持たない非行歴のある男、3月10日頃から行方をくらました男を中心に容疑者を調べて行き、その数は200人にも及びました。

その結果犯行を自白した者は、赤堀さんだけではなかったことが、再審段階になって判明しています。赤堀さんも3月3日に自宅を出てから行方不明となっていたため、捜査対象となっていました。

 

4 変化していった目撃証言

目撃証言の中には、浮浪者風の男とするものと、髪の毛を分けた勤め人風の男とするものがありました。しかし赤堀さんが逮捕され、さらに公判になると、これらの目撃証言は、次第に赤堀さんの姿に似たものとなっていきました。

他方で、赤堀さんを知る人は島田の町には多くいたはずなのですが、事件当日、赤堀さんを見たという目撃証言は、一人もいなかったのです。

ところが裁判所は、自白調書にとらわれ、これらの赤堀さんに有利な事情を無視しました。

 

5 問題のある法医鑑定に従った判決

被害者の女の子には、①首の絞扼痕(絞めた跡)、②左胸に硬い物で殴ったと思われる傷、③陰部に裂傷がありました。捜査段階の鑑定医は、①は生前のもの、②の傷は死後のものと判断しています。

しかし“自白”調書では、強姦行為の後に石(警察が現場から押収したもの)で女の子の左胸を殴り、殺意を持って首を絞めたとなっています。

すなわち、鑑定書と“自白”調書では、犯行順序が異なっているのです。

この点について疑問を持った当時の静岡地方裁判所は、終結した審理を職権で再開して、当時の法医学界の権威であった東京大学の古畑種基教授に鑑定を依頼しました。同教授は、傷ができた順序は“自白”調書通りであり、石の殴打で胸の傷はできると鑑定しました。

これによって静岡地方裁判所は死刑判決を下し、東京高裁、最高裁もこれを支持しました。

その後再審段階になって、様々な法医学者によって「②、③の傷は死後のもの」「当該石の殴打によっては②の傷はできない」「③の傷は強姦行為によってできたものではない」という鑑定書が提出されています。

 

6 検察官による証拠の隠匿

再審段階になって、赤堀さん以外に、この事件の犯人であると自白した者がいたことが判明したため、弁護人はこの自白調書を提出するよう、再三検察官に求めました。この自白調書が提出され、その者が証言すれば、当時の取調べや自白に至った経緯など密室での取調べ状況が明らかになると考えたからです。

ところが、検察官はこれを拒否しつづけました。

 

7 再審への長い道のり

赤堀さんが再審公判で無罪を勝ちとるまでには、4次にわたる再審申立を重ねなければなりませんでした。

実質的な審理が行なわれたのは、第2次再審と第4次再審です。その中心争点は、自白の信用性とアリバイの成否でした。これに加えて2次では、犯人が女の子を連れて大井河原を渡った際に河床に刻された足跡、4次では法医鑑定がとりわけ重視されました。4次で出された新鑑定は、くつがえすことは至難と言われた、時の権威古畑鑑定のまやかしを暴いたもので、再審開始、無罪へ大きく貢献しました。

逮捕以来再審開始決定が出るまで実に32年の月日がかかりました。第1審の死刑判決から再審無罪判決までの31年間、赤堀さんは死刑の恐怖にさらされ続けたのです。