冤罪(誤判)防止コム >> 死刑再審4事件 >> 松山事件紹介

松山事件紹介

                     松山事件について

 1955(昭和30)10月18日、宮城県松山町で、幼児を含む一家4人が殺害され、住まいに放火された事件。近在の斎藤幸夫さん(当時24歳)が逮捕・起訴されました。1960年(昭和35)11月、最高裁で死刑判決が確定。斎藤さんは無実を訴えて再審請求を繰り返しました。

 再審段階で検察側から裁判不提出記録が開示され、昭和59年7月に無罪判決。29年ぶりに死刑台からの生還を果たしました。この時、53歳。この事件の捜査・起訴・裁判でも、冤罪事件共通の要因が多く見受けられます。

 

1 見込み捜査による別件逮捕

 捜査は難航し、迷宮入りがささやかれました。事件発生後“素行不良者”の一人として目を付けられていた斎藤幸夫さんは、10月下旬上京して職に就いていました。これを「高飛び」とみた捜査本部は、知人との喧嘩を傷害罪の容疑に構成、12月2日、東京で別件逮捕に踏み切ったのです。

 しかし斎藤さんは、上京することを家族の一人に告げていましたし、東京の勤め先にも名前や経歴を偽りなく申告し、東京の住所を実家にも知らせていました。実態は「高飛び」などと言えるものではなかったのです。

 再審無罪判決では、本件と全く関連のない別件の単純傷害事件で逮捕し、その直後から本件の取調べを行なったことは、違法または不当な別件逮捕だと指摘しました。

 

2 自白の強要・同房者の自白勧誘

 別件逮捕直後から始まったこの事件の取調べでは、当夜の行動・アリバイを追求され、連日、過酷な取調べにより自白を強要されました。

これに加え、逮捕の翌日から一週間、前科5犯の人物と同じ留置室に入れられたのです。

 斎藤さんはこの人物から「ここに来たらやらないことでもやったことにして、早く出たほうがよい。裁判になったら本当のことを言うんだ。」とすすめられ、取調べの苦痛から逃れるため、12月6日になり、自分が犯人だと認める自白をしました。

 再審無罪判決は、この同房者がスパイとして捜査に利用されたと認めています。さらにこの同房者が、「自白すれば刑が重くはならない。5、6年の刑ですむ。」「警察の留置場より拘置所や刑務所の生活の方が快適だ」などと話して自白するように示唆した状況が十分うかがわれるとし、これが、やっていないことを認める“自白”の動機になったと認定されました。

 自白の内容についても、①秘密性のある供述がほとんどない、②供述の変転が多くみられるが、これは齋藤さんが体験していない虚偽の事実を、裏付捜査による知識を反映して変更されたものとみられ、自白の信用性は乏しいと判断しています。

 

3 再審で「有罪の証拠とはできない」とされた血痕鑑定

 有罪判決の根拠となったのは、掛布団の襟当ての血痕群でした。三木敏行・古畑種基鑑定は、「掛布団の襟当てに被害者と同型の血液が付着している」としました。一審死刑判決を維持した仙台高裁判決は、返り血を浴びた頭髪を介して付着したとし、「自白は掛布団の襟当に付着していた血液により科学的にほとんど決定的に裏付けられた」と認定したのです。

 しかし再審無罪判決では、血痕群の付着状況は頭髪を介して付着したとするにはあまりにも不自然、不合理であると認めました。そして、掛布団の押収、保管、移動並びに鑑定経過に疑義がみとめられる、押収当時に掛布団の襟当てに血痕群が付着していたかどうか、払拭できない疑問があり、証拠上、押収以後に血痕群が付着したと推測できる余地が残されているとし、有罪証明に価値がある証拠とすることはできないと断じました。

 なお、その後、齋藤さんが国に誤判の責任を問うた国賠訴訟では、この掛布団襟当ての斑痕は“生活汚斑”であり、三木・古畑鑑定は誤鑑定(虚偽鑑定)とする視点が追加されています。

 

4 警察による証拠隠し

 有罪獲得に障害となる都合の悪い“無実”の証拠は、警察が隠してしまう。これも冤罪事件に共通しています。

 被告人の“自白”では、「犯行の返り血でズボンやジャンパーがヌルヌルした」となっています。実は警察の鑑定で、着衣には血痕の付着がないとわかっていましたが、死刑判決の一審ではその鑑定書は提出されませんでした。弁護側の強い要請により、二審の結審の間際に提出されましたが、十分な法医学的検討はされず、「犯行直後被告人が溜池で洗ったり、その後も洗われているので血痕が付着してなくとも異とするに足りない」と、仙台高裁は捜査側の立場に都合の良い判断をしました。

 再審請求の過程で、法医学者の実験により、血痕反応は洗濯などでは消失しないことが判明しました。再審無罪判決では、「ズボン、ジャンパーには多量の血液は付着していなかった蓋然性が高い」と認められました。

 弁護団では、「捜査当局はズボン、ジャンパーに血痕反応がないことの意味を十二分に承知していながら、隠してきた」と、厳しく批判しています。

 

5 審理を尽くさなかった裁判所

 斎藤さんが本件犯行を行なったなら、また“創られたた自白”どおり着衣に返り血が付着したなら、一度や二度洗濯したところで血痕反応が消えることがないことは、当時の法医学上も明らかでした。ところが、死刑判決を維持した仙台高裁は、前記のような杜撰な判断により、この重要な問題を見逃しました。裁判所として、十分な審理を尽くしたとは言えません。

 

6 繰り返された誤判

 裁判不提出記録が弁護団に開示されて、1979(昭和54)年に再審開始決定が出るまで、逮捕から24年。この間、原裁判が3回、第1次再審請求棄却と、誤判が繰り返されました。第1審の死刑判決から再審無罪を勝ち取るまでの27年間、斎藤さんは死刑の恐怖の下におかれました。

 被告人の無実を示す証拠の隠匿は、絶対に許されるものではありません。

 捜査機関が集めた証拠の全面開示が必要である理由が、ここに端的に証明されています。