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免田事件紹介

免田事件について

 

 1948年(昭和23年)12月29日午後11時30分頃、熊本県人吉市北泉田町で、祈祷師の夫(76歳)が頭部、頸部に刺創・割創を受けて即死、妻(52歳)が頭部に割創を受けて翌朝8時30分に死亡、長女(14歳)と次女(12歳)がいずれも頭部に割創を受けて重傷を負った事件。歳末警戒に出ていた次男(18歳)が、12月30日午前3時20分頃、自宅前で室内から長女の助けを呼ぶ声により、被害を発見した。

 免田栄さん(当時23歳)が逮捕・起訴され、1951年12月、最高裁で死刑判決が確定。免田さんは6次に及ぶ再審請求で無罪を訴え続けました。1983年7月に、ようやく出された無罪判決。逮捕から34年、免田さん57歳の時でした。

 

1 違法な別件逮捕

 1949年(昭和24年)1月13日夕方、人吉署警察官5名は、当時免田さんが住んでいた球磨郡一勝地村字奈良口の民家を訪れ、午後9時30分過ぎ免田さんを本件の強盗殺人等容疑で拘束しました。深夜厳しい寒気の中を約2時間も山道を歩かせた後、自動車で人吉署に連行しました。

 翌14日午前2時半頃署に到着、直後の午前3時、玄米と籾の窃盗容疑で緊急逮捕しました。16日正午頃にはこの容疑では一旦釈放しましたが、午後2時頃に本件強盗殺人等の容疑で逮捕し、1月28日に起訴しています。

 1月13日夕方から16日正午までは、違法な拘束です。しかし免田さんはこの期間に自白を迫られ、16日には警察官調書2通、17日にはほぼ全面的に自分の犯行だと“自白”するに至りました。

 

激しかった自白の強要

 免田さんに加えられた最大の苦痛は、睡眠を奪われたことでした。13日夕方から16日午後11時までの取調べ終了まで、免田さんは、14日に机上に伏して仮眠をとらされただけでした。警察はその間、正座、腕立て伏せを強要しただけでなく、こづく、殴る等の暴行を加えて、自白を迫りました。

 

3 警察の意図的なアリバイ潰し

  免田さんは逮捕直後から、事件当夜の29日は「丸駒」に宿泊したとアリバイを主張していました。これは、移動証明書、職員手帳、配給通帳、消費者台帳、中村領収書、30日の宿泊先の人の証言によって裏付けられました。

 しかし、警察はこれを認めず、無視し、の16歳の女性に「免田さんが泊まったのは30日である。」と誘導し、虚偽の供述をさせました。

 

4 公判でアリバイ・無実の主張へ

 第1審第1回公判では、免田さんは警察でやむを得ずしてしまった“自白”の影響下から抜け出せず、事件の外形事実を認め、殺意は否認しました。弁護人もこれに従いました。

 第1審第2回公判で、敵娼であった女性は、警察での供述どおり、免田さんのアリバイを否定する証言をしました。しかしこの証言の後、免田さんは裁判長に問われて、自分が登楼したのは29日の晩であると思うと述べました。

 第3回公判の被告人質問で、免田さんは、「29日は丸駒に泊まり、30日はK宅に泊まった。」と述べ、明確にアリバイを主張しました。これ以降、弁護人は必死にアリバイを裏付ける前記の移動証明書等の物証や証人を探し出し、裁判に提出しました。

 

5 虚偽の自白を信じた裁判所 

 弁護人は、アリバイが成立すること、自白は警察の暴行や脅迫でさせられたもので任意性はなく、信用性もないこと、自白の内容は被害者の受けた創傷や凶器との適合性がないことなどを主張しました。

 しかし第1審判決は、アリバイを立証する物証や証言には全く触れずに有罪を認定し、死刑を宣告しました。控訴審も上告審も、アリバイの成立を否定し、自白を信用できるとして第1審判決を支持して、免田さんの死刑が確定したのです。

 

6 実った6度目の再審請求

  免田さんは最高裁への上告棄却判決を受けた半年後には、再審請求を申立てました。2度の申立が棄却された後の第3次再審請求では、一旦は開始決定(西辻決定1956.8.10.)が出たのですが、これは抗告審で取り消されました。

 その後、日弁連の支援を受けた弁護団は、第6次の再審請求抗告審で立証をさらに補充し、無実を明確にし、ついに1979年9月、再審開始決定を得ることができました。しかし検察官は最後まで争い特別抗告をしたので、再審開始が確定したのは1年後の1980年12月17日でした。

 

7 隠蔽した「無実の証拠」の返還請求

 免田弁護団は、再審請求の証拠とするため、無罪を裏付ける重要な証拠である鉈、マフラー、手袋等の返還を求める民事訴訟を、国を相手に1964年2月に提起しました。しかし被告の国はこの重要な証拠を、なんと「紛失した」として返還を拒みました。 

 東京地裁は1971年7月、国に500円の賠償を命ずる判決、控訴審でも同様の判決が出ました。最高裁第1小法廷は、1979年11月30日、口頭弁論を翌年2月に開くと決定し、実質審理への期待が高まりました。その後、担当調査官の死亡により弁論期日が延期されるなどのことがありましたが、12月17日に、待ちかねた再審開始決定が確定しました。このため、これらの証拠の必要はなくなり、この訴訟は取り下げにより終了しました。

 このように免田弁護団は、あらゆる可能性を追求して弁護活動を行いました。

 

8 誤判の原因はどこにあったか

 裁判所は、自白をもっぱら偏重し、アリバイ証拠を無視し、凶器と傷の不一致・着衣の血痕付着なしなどの客観的事実とこれを科学的に証明した弁護側鑑定を排斥し続けました。その結果、第1審から最高裁判所まで、各級の裁判所が誤判を繰り返しました。

 免田さん逮捕から再審開始決定まで30年。第1審の死刑判決から再審無罪判決まで約33年間、免田さんは死刑執行の苦しみの中に置かれました。